ぎょーむ日誌 2001-02-17
2001 年 02 月 17 日 (土)
- 1200 起床.
また時差週末になるか.
- 知人に海賊の末裔がいる.
戦国時代の水軍として知られる
九鬼家の家臣だった一族で,
今も志摩半島にその名は残っている.
ところで,
数代前は摂津 (兵庫県) の三田 (さんだ)
が在所であった,
という.
なぜ伊勢から遠く離れた,
それも三田のような山の中に ?
- そのあたりを伺うと
「関ヶ原で西方についたため」
とのことである.
まぁたしかに九鬼家なら織田→豊臣という
しがらみで敗軍がわについたんだろうなぁ.
で,
家臣ともどもに三田に流されたわけか,
と納得していた.
- ところがところが,
今日,
歴史もの web サイトをふらふらしてると,
事態はもうちょっとややこしいものであった,
とわかった.
例えば
この解説
によると,
関ヶ原合戦において九鬼家は
(ありがちなことに)
東西に分かれたのである.
つまり「鉄甲船」で名高い九鬼嘉隆は西方につき,
その嫡子である守隆は徳川についた.
どちらが勝っても九鬼家は存続する,
という構図である.
その読みどーりに,
戦後は九鬼守隆が鳥羽周辺を継ぐことになる.
- その守隆の後継問題でごたごたしているときに,
外様大名の水軍保有を望まなかったらしい
江戸幕府が調停と称して介入.
九鬼家を分断した上でそれぞれ三田と丹波の山の中に
封じてしまったのである
(
三田九鬼藩三万六千石
などいろいろな解説ペイジが見つかる).
九鬼久隆についた家臣たちは
三田に移ることになったのであろう.
三田の九鬼家は幕末まで存続し,
最後の藩主であった
隆義
は維新後には子爵になっている.
この人物,
なかなか面白いです.
「殿様」があれこれやるもんだから,
その家臣たちも巻き込まれたんじゃないかな
……
具体的には関西方面の教育機関,
とくにキリスト教関係のそれの設立に関与している.
このあたり,
幕末においてすでに西洋式砲術を導入していた
啓蒙君主・隆義の関心の所在らしい.
- ……
なんてことを調べたり,
本を読んだりしてるうちに一日が終わったのであった.
ああ,
研究が進んでない.
-
連絡遅れましたが 18 日 (日曜日) は
停電のため <鳳翔> 停止します.
(20010217)
- 今日の食卓
- 朝 (1130):
スパゲッティ.
タマネギ・ニンニクのキムチ味ソース.
- 昼 (1730):
米 0.8 合.
ホウレンソウの残り.
- 晩 (2330):
うどん.