試製機のこと:ある老人の回想

(作成980830)

老人と中学生 | いいかげんなパーツ選びのむくいは |
彼女の戦闘航海に幸運あれ | <鳳翔>の由来

老人と中学生

ほうほう…… 科学史・技術史の自由課題の論文に この主題を. ああそう言えば, 中学校の夏休みももう終りなのかな. 講義の半分近くが自宅受講になっても, 夏休みとか夏休みの宿題なんかがあるわけですか. なるほど. ははあ. 授業で習ったネットワークプログラミングと 検索アルゴリズムを組み合わせて 「闇ネット」について私が書いたペイジを見つけた,と. ええ, もう何十年もぼちぼちと更新しつづけてますよ. しかし,まぁあれは大昔のことで. 何しろ,あなた. いまや時代遅れのIPv6 ですら まだ全然普及していなかったころの話なんですよ (IPv4 などというものを使っていました). いまの若い人たちにそんなころの話をしてもねえ. ああ, でもそれで宿題が片付くんなら お手伝いさせていただきましょうか.

……おや…… 当時の事情について よく調べておられる. じゃあ, 今回は少し細かいことまで話しましょうかね. そうそう. そのEthernet を回線として闇ネットを作りました. 回線といっても単なる細い導線に 電気を流すだけなんですよ. そんな容量の小さいものを 当時は電算機間通信に使っていました. そう, 闇ネットを作ったのは 私が九州から無事に脱出して 北転してすぐのことでした. 北海道大学の特別研究員でした. で, その研究室の闇ネットを そこで言う「表ネット」に接続するためには 「闇ルーター」が必要なんです. ええ,そこに書いてあるとおりです. で何で私が そのルーターたる計算機を自分で組み立てようと したかがわからない? ははぁ.

たしかに, 私はそのときまで計算機のハードウェアなんて まったくいじったことがなかったんですよね. それなのに あえて自分で部品を買い集めてきて ルーターとして組み立てたのには やはり理由がありました. 当時の個人用電算機は 買うといろいろとヘンなものが付いてきたんですよね. たとえば 特定のソフトウェア会社が 自分たちの都合だけでこしらえた わけのわかんないOS (というかOS らしきモノなんですけど) が 最初から外部記憶装置に入っているんですよね. ええ, 有料の製品なのに どこの電算機メイカーの製品も何の工夫もなく 同じことをやっていました. たしかにそういう時代だったのかもしれません. だけど私はとてもイヤでした. そんなものでは電算機をルーターにすることもできませんし. それから JIS キイボードとかいうものが付いてくることにも がまんなりませんでした. ですから, できあいの電算機を買っちゃうと 役にも立たないそういうゴミやクズにたいしても それを認めて 対価を支払っていることになるんで, それだったらいっそのこと 余計なもののついていないまっとうな部品を集めて 自分で組み立ててやれ,と.

まぁ他にもいろいろと事情があったんですけど, それがやっぱり 前世紀末の電算機事情を象徴しているということで 理由として挙げてみました. なるほど. あなたはそれを科学史・技術史の授業の参考文献で. 私らのころも社会・理科は教科書 (あらかじめ教科書会社が大量印刷したものを配られていましたねぇ) 以外にも「資料集」とかがあって, 授業中のひまつぶしに読んでいました. ああ,申し訳ない. で,あなたはあのやくざなソフトウェア会社のことを そういった資料でお読みになられた. ええ. つぶれてから, もうずいぶんになりますからね.

いまならばともかく, 当時は 計算機のハードウェアについて 何の知識もない人間がそういうことに 手を出すというのは, まぁたしかに乱暴な話ではあったんですけど…… 実は1990年代になってから次第に, 原始的ながらも ある程度は電算機部品のモジュール化が進んでいましたから, まぁ私のようなド素人でもなんとかなるんじゃないか, そう考えたんですよね. もちろんモジュールと言っても, 最近のように独立化・自律化・分散化の進んだ 知性すら感じさせるシステムには ほど遠いものでしたが……

いいかげんなパーツ選びのむくいは

そうですねぇ…… 苦労した点と言えばやはり部品選びとその組み合わせでしょうか. どこかに20世紀末の 電算機部品の画像を展示しているペイジはないかなぁ…… ああ,ありました. これが部品を差し込むマザーボードと呼ばれた, ええ基板のことです. けっこう大きなもので. このマザーボードを さらに筐体というでっかい箱に入れていたんですね. えっ? いやいや こっちはCRT という陰極線管をつかった表示出力専用装置で, 電算機本体はまたべつの箱に入って場所をとっていました. とにかく あれこれとかさばる時代でした.

で, そのマザーボードにCPU (これは半導体の多層構造集積回路でした) だの メモリーだのといった部品を搭載していくわけです. 重要な部品のひとつに機械式の外部記憶装置というものがありました. この装置は何種類もあったんですけど, 要約すれば基本的にはどれもこれも円盤, そう光学的な溝を掘られたり磁気を帯びている円盤を くるくると電気モーターで回すような形式のものでした. ええ,たしかによく壊れていましたね.

中でも当時の電算機に必須とされていたのが, ドライヴユニット内に回転軸を固定した 金属円盤を用いるハードディスクドライヴでした (われわれはハードディスクと略称し, メリケン人はハードドライヴと呼んでました). 次に重要なのがCD-ROM ドライヴでした. どこかに図版はないかな…… そうそう, こういう取り外し可能な金属円盤に あらかじめ書き込まれたデータを 半導体レーザーで読んでいくんです. これはデーター読み込み専用でした. えっ,どうしてそんな 読み込み専用メディアのドライヴなんかを わざわざ別にとりつける必要があったのかって? それは,あなた. 当時はまだまだディジタル情報ネットワークが まだまだ未発達だったからです. 比較的大容量のソフトウェアやデーターは 円盤に納められて 物理的に配られることが多かった, そんな時代だったのです.

これら外部記憶装置をこのマザーボードに取りつけるには ふたつの方法がありました. ひとつはIDE と呼ばれるコネクターを利用する方法で これはケイブルさえあればドライヴ装置とマザーボードを 接続できました. もうひとつはSCSI (すかじい) ポートを介する方法で, これにはSCSI カードと呼ばれる部品が別に必要になります. IDE を使うときはIDE 専用のドライヴを, SCSI のときはSCSI 専用のものを使わなければなりませんでした. そのとき私の手元には余分なSCSI のハードディスクが ありました. これを有効活用してやれと考えたのです. ええ. それが間違いの始まりでした.

最初に買った部品はマザーボードでした. 私にはどれがよい製品であるのかよくわからなかったので, パーツ屋の店員さんに相談してみました. 彼は忙しかったのか面倒くさそうに やたらとPCI バスがついた高価なマザーボードを 私に押し付けました. PCI バスというのはSCSI カードだのなんだのを 物理的に差し込む受け口のことです. 私は不当に高い物を買わされたような気になりました. なにしろハードディスクも新しく買わないで, けちけちとしているぐらいですから, 少しでも安くあげようということが, まず念頭にありました. そこでSCSI カードを買うときには 自分で安い部品を探そう, そう決めたのです.

ちょっと古くて 値段の安いSCSI カードを見つけたので, さっそくそれを入手しました. これはSCSI 機器というものの特徴だったんですけど, SCSI チェーンと言って, 言ってみれば 「(仮想的に)一本のSCSI ケイブル」の上にたくさんの 装置を同時につけることができたんです. くだんの安物SCSI カードをマザーボードに差し込み, それにSCSI ケイブルを一本取りつけ, さらにケイブルにはハードディスクと CD-ROMドライヴを装着してみました. ところがところが. その古いSCSI カードは 自分にCD-ROM ドライヴが接続されているのは 正しく認識してくれましたが, ハードディスクの接続は認識してくれませんでした. 図で描くとこういう感じです.

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……どうやってもダメだ, ということを納得するために一晩徹夜しなければ なりませんでした. 建造費を節約するつもりが ……かえって高くついてしまった…… 私は泣く泣く新しいSCSI カードを買いに行きました. で,先日の店員さんよりは 少しばかり利他的な感じの店員さんが教えてくれた ところによると, SCSI カードにはBIOS を搭載しているものと 搭載していないものがある, とのことです. BIOS が搭載されていないSCSI カードにつながっている ハードディスクでは計算機を起動できないんですね. そんな基本的なことも私は知りませんでした. で,新しくBIOS つきのSCSI カードを買ってきて (これは古いカードの2倍以上の値段だったので 私の気持はずたずたに引き裂かれてしまいました), 再びすべての部品をつなぎ直しました. ところが今度はCD-ROM ドライヴを認識してくれないのです.

yami-system

CD-ROM ドライヴが使えないとOS (Linux というまっとうなopen source software の先駆けの ひとつでした,ええ今でもその眷属が使われていますね) をはじめ, CD-ROM で配布されているソフトウェアの インストールがたいへん面倒になります.

私は努力しました. また一晩徹夜しました. その結果, やはりどうしてもこの新しいSCSI カードでもダメらしい, ということがわかってきました. 実は私が買ったSCSI 用CD-ROM ドライヴはこれまた ちょっと時代遅れのたいへんな安物なので, 新しいSCSI カードではこれをうまく利用できないようなのです. わずか数年前の部品を有効活用するにも マニアックな知識が要求されていた 時代だったのです. こんなことなら 最初からIDE 専用のドライヴを新たに買ったほうが よほどマシでした. 札幌市のビルを上に太陽が完全に姿をあらわすころ, 私は自分の敗北を認めていました. 全身から力がぬけました.

彼女の戦闘航海に幸運あれ

私はふらふらと大学の建物から外に出ました. 新しいCD-ROM ドライヴを買うためでした. 道々, 疲弊した精神は 現実の複雑さ非情さに 打ちのめされ続けていました. 何しろ安いSCSI カードだとハードディスクが正しく動かない. 安いCD-ROM ドライヴは新しいSCSI カードに対応していない. きっと新しい部品を買ってもまた何か不都合がでるに違いない. 必ずそうに違いない. いや,そうに決まった. このまま部品のコストは無限大に発散し. ははは. 愚かものにはその愚かしさにふさわしい罰を. 何しろ安いSCSI カードだと…… ちょっと待て. 脳裏にひらめくものがありました…… そうか…… いや…… いや,ひょっとすると…… 私は買い物を中止し, 研究室に全力でかけ戻りました.

私のような人間が申し上げるのもナンですけど, 人間追い詰められてみますと ときには存外よい思案が得られるようです. むろん いくら七転八倒しても ダメなときはダメということが多いのも まごうかたなき真実なのですが…… ともあれ, 消耗の限りをつくした状況で 私は問題解決の方法を最後に見いだし, それ以上は一銭も費やすことなく 闇ルーターたる電算機を無事に起動しました. いやはや助かりました…… えっ,その接続方法ですか? この 図 にあるとおりです. 簡単なことでしょう.

Yami Twin SCSI Card

あるいは, あの高価なマザーボードを売りつけた 無愛想な店員さんは この事態を予見していたのかもしれませんね. PCI バスの数が十分にあればこそ このような接続方法が実現したわけですから. まず電算機を起動しますと, 新しいほうのSCSI カードのBIOS が呼び出されます. で,このBIOS はその計算機に接続されている すべてのSCSI 関連機器をチェックするんですね. その中には当然 この古いSCSI カードとそれに接続されている CD-ROM ドライヴも含まれています. まぁ, SCSI カードを二枚も装着しているような 贅沢な電算機を作るつもりは 毛頭なかったわけですが…… ともあれ何とかまともに動くものができたので安心しました. ええ,それはもちろん. 正常な起動に成功して 筐体のなかから さまざまな円盤が高速回転する ぶぅーんという重低音が響いてきたときには, そりゃあ嬉しかったですよ.

あとはLinux というPC-Unix のOS をインストールするだけで これは 寝不足でもーろーとなった頭でもできる簡単なことでした. そうそう. この名前はOS をインストールしたあとに ネットワーク周りの設定をやっているときにつけたものです. 椅子からずり落ちそうになりながら, 設定していたんですけど 名前を決めるときだけ 少しばかりしゃんとして姿勢を正しました. これは未来を託された試製機であり, 今後しばらくは研究室の電算機網のかなめとして働き, プラットホームだの テストベンチだのに使われるものなんだから…… 少しばかり 伝統にのっとった「進水式」でもとりおこなってみたい 気持でした. 「平成十年五月二十七日に此電算機の工事を始め 今や艦体成るを告げ<鳳翔>と命名せらる」…… ええ, そうです. 幕末と大正年間の故事にあやかれば,と. 彼女の長寿と戦闘航海の安寧を…… 私はそう祈らずにはいられなかったのです.


脚注

[∞] 幕末に英国に発注された<鳳翔> (ほうしょう) は 維新後に明治政府の帝国海軍に編入された. 排水量316 トンの小型木造汽船ながら <鳳翔>はその後30年以上活躍を続けた. 大正10年に進水した二代目<鳳翔> (排水量7470 トン)は 人類の造船史上で 初めて航空母艦として竣工した 画期的な軍艦であった. 建造・運用の過程において, 新時代の海上戦力の実用化に必要な さまざまな知見を提供しつづけた. その後は練習空母として 艦上機パイロットの養成にあたった. 太平洋戦争を無事に生き残り, 戦後は復員輸送船として大いに貢献した.




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