我らの計算,彼らのモデリング

(作成980123;修正980201)

私はこの本の中で,大切なこと,カンジンなことはすべて省略し, くだらぬこと,取るにたらぬこと,書いても書かなくても変わりは ないが書かない方がいくらかマシなことだけを書くことにした.

北杜夫「どくとるマンボウ航海記」(1960)


……はてさて,この帳面に落書きを始めるにあたって……自己紹介も兼ねて, 私の怪しげな商売を説明したい. そのためには,まずお得意様の生態について稿を費やさねばならぬ. 我らも彼らも,あまり世に知られざる珍種なればこそ…… しばし,おつき合い願います.

“森林生態学者といふ現象”と言ってよいのか……

世の大学や研究所などには森林生態学者とよばれる人々がおられる. ひとくちに森林生態学者といってもその興味のおもむくところは 実に様々であるのだけれど, その中に「森林は時間と共にどのように移り変わっていくのだろう」と いうことを知りたくてたまらぬ人々がいる. 仮に動態屋さんとでも呼ばせていただこう. 動態屋さんたちのやることはいささか興味深い.

動態屋さんたちは自分たちの森林調査地で何年も森を見つづけている. 見ているだけではない.計り数える. 一本一本の樹木の胴回りを情熱をもって測定する. 森の中のあちこちに「使い捨てゴミ箱」ごときモノを無数に設置し, 落ちてくる葉っぱだの種などを容赦なく集める. 地面に座り込み, 樹木のひとつひとつ芽生えのわきに, 「お子さまランチ」に用いられるような旗を丹念に立てたり抜いたりする. 野ネズミがドングリを持って逃亡せん とする犯行現場の写真の撮影方法を工夫する. 見ているほうはおかしみを感じて仕方がないのだけれど, むろん動態屋さんたちは徹頭徹尾真剣そのものである.

森林の変化を「暗算」する人々

学会や研究会で動態屋さんの話を聞いていると, 一見しただけでは面妖なるそれらのふるまいの意図するところが見えてくる. 彼らは生きている森の営みをばらばらに分解しているのだ. そしてばらばらになった部品の形だの仕組みについて調べあげる. なるほどなるほど…… と拝聴していると,唐突に発表が終わる. 「これでこの森林についてはだいたいわかりました」だって? ああ…… その森林を見たことない他の動態屋さんたちもみんな納得しているよ. 分かっていないのは私だけなのだ.

うーむ,森林というよくわからない生き物からえぐりとった内臓を きれいに洗浄して陳列しているところまでは,なんとなくわかる. でも,これら部品と森林全体の生きざまの関係がさっぱりわからない…… 私は自分が不勉強だから動態屋さんたちの話が理解できないのだ としきりに反省したものであった.

ここで自らを恥じ,心機一転して勉学に励んだ……ということであれば, 未来の偉人伝に私の名前が連なるのはまず間違いあるまい. しかしながら,たいへん幸いなことに, 全てがイヤになり何もかも投げ出すずっと以前に, 私ははるかに安直な問題解決に逃げ込む決意をした. さてさて,まずは考えてみよう. 私には森林動態の内臓散乱遺棄死体にしか見えぬ「ばらばら部品」を 眺めただけで, どうして動態屋さんたちは「だいたいわかって」しまうのだろう?…… そうだ,日々のたゆまぬ観察の結果, 彼らは頭の中に「ホンモノそっくりに動作する森林」が形成されているに 違いない.だからこそ,モジュール化された部品さえ差し換えれば, 見たこともない森林の挙動も「そら」で再現できるのだろう.

こういうモデル屋もあり?

頭の中に「生きている森林」を作り, さまざまな部品をはめこんでみるという方法論は, 動態屋さんどうしで情報を共有するのにすぐれているのかもしれない. ただし,欠点もある. 私のように森林動態を観察したことがない人間はどうすればいいのか? それではここで,もし頭の中ではなく, 例えば電算機の中に仮想森林(ヴァーチャふぉれすと?)を作ることが できたならば…… そう,広葉樹と針葉樹の区別すらさだかならぬ私やあなたですら 「自分の森林」を持ち好きなように動かすことができる. 所有しそれで遊ぶこと.多くのひとびとにとって, これほどものごとに対する認識を深める方法はない. こういった需要はあるにちがいない(動態屋さんにすら). そして現状では供給はほとんどない[1]. ならば私が店開きをする余地もあるだろう.

……ここまでくだくだしく書き連ねてきたのが 私の商売の基本的な立場である. 生態学という学問分野において, 私は「モデル屋」とよばれる職能集団に属する人間である. 「モデル」という語は上で述べているところの仮想森林に ほぼ対応する概念である. しかし実のところ森林動態のモデルの大部分を構築しているのは, 私ではなく動態屋さんであることがわかる. なんとならば, 私が目にすることができるのは森林動態の破片ばかりである. つまり「どのように全体を切り刻むべきか」は 動態屋さんの知識と経験(すなわちモデル)にすべておまかせしている. そして彼らはおそらく 「これだけ部品をとっておけば,動きは再現できるはず」 という基準で情報を選択し観測し記録している. でなければ,世界各地のどの森林でも, あれほどの確信をもって樹木のスリーサイズを 執拗に測定できるはずもあるまい.

何ができて,何ができそうにないか?

比喩を用いて以上を要約するなら, 動態屋さんたちが「暗算」でやってしまうことを, 「筆算」のようなものに翻訳することが私の仕事となる. さらに「検算」らしき作業もやる. 例えば動態屋さんたちの「部品化作業」はホントに妥当であったのか? といった問題を調べている. 多くの場合, これら部品は特定の構造をもつ数値の集まり として表現されている(これはふつうデータと呼ばれる). それらを電算機の中で「元々のモデル」に沿って再構築してみるとしよう. もしあまりにも「現実離れした」森林ができたならデータとモデルを 再検討せねばなるまい,となる.

モデル屋はときとして「理論家」なんぞと呼ばれ, あたかも無から有を生じせしむるがごとき働きを期待される こともないではない[2]. しかし,少なくとも私はそのような魔法を知らない. 実態は上述のごとしである[3]. いっしょに研究している動態屋さんに話をしつこく伺い, なぜそういうデータを集めたのか教えてもらい, 彼らの頭の中にある森林を電算機の上に「それらしく」移植しては, あれこれと仮想的な数値樹木集団で遊ぶばかりである. この一事を伝えんがため, 長々と稿を続けてしまった.次からはもっと簡潔にまとめよう.


Their modelling

脚注

[1] 動態屋さんも自分で電算機上に仮想森林を構築することがある. ところがなぜかそこで採用されるモデルと 彼らの頭の中にある森林が一致していないことが多い. 動態屋さんの話を聞き, 彼等の示すデータ構造を見れば,それは明らかである. 「言っていることと計算ってる(やってる,と読む)ことが違うなぁ」と 考えたので, 彼らの「元々のモデル」にできるだけ忠実に電算仮想森林を構築を試みている.

[2] ときどき「具体的なデータはまったくないんだけど モデルにならない?」と質問される. 私はこういう「自由度の高すぎる」仕事は苦手だ. 頭がカタいのかもしれない.

[3] 実はモデル屋にもいろいろあるので, 一概にこれだけとは言えない. 例えば,何かの審美基準に適合する「観念の飛翔」で モデルを構築する人たちもいる. しかし私にはこういう観念主義的方法論は難しくてできそうにない.




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