数理科学は“パターン”の科学

(作成980125;修正980201)

前回はぐだぐだと書いてしまったので, 今回は結論を短く述べる. 数理科学とはパターンの科学である. 以上. それではみなさん,また……

目的のための道具

……これで済めば書き手も読み手も楽なのだけど…… やはり今回も,いま少しぐだぐだと説明してみませう. 私の場合,「問題」のできるだけ「わかりやすい」解決が目的であり, その他は何ごとであれ手段にすぎない[1]. その「問題」とやらについては, まぁこのWebサイトのそこここを見ていただければ, だいたいの感じはつかめるだろう (気短な読者のために要約すると生態学のなんだかんだ,だ). では,そのために必要な道具とは何なのか? ここでは道具としての数理科学の構造と機能について考えたい.

われわれは算数だの数学だの数理科学だのを ずいぶん小さいころからたたき込まれる[2]. 数理科学とは一体全体どういう道具なのか. 解法のパターンを暗記して 受験の一課目でよい点数を取るためのものだろうか. それとも,少数の自明なる公理系から, 「純粋な」論理的思考により美しくより深い一群の定理を導きだし, その世界を結晶化させるためだろうか. 人はその信じるところに従い, 好きなように道具を用いればよい. それでは生態学に興味があるとすれば,どう使えばよいのだろう.

記号,演算そしてパターン……

どんな数学にも必ず登場する要素を考えてみよう. それこそは数理科学の道具としての基本的な機能を規定しているはずだから. 私が理解できる範囲では, その要素とは,記号,演算そしてパターンである[3]. 記号とは文字や数字や◯や■や→などなどのこと. 演算とは記号から別の記号に変換する操作. そしてパターンとは記号の羅列であり, とくに興味深いものとしては人間が「見て」なんらかの 「意味」を引き出しうるもの. こういったことは当たり前すぎるためか, 学校ではあまり習わないけど, 面白いと思いませんか. 例えば,パターンというのは記号の羅列であるから, 演算という操作によってあるパターンから 別のパターンを生成できる[4]

ところで,生物学百般の中にあって, 生態学は著しくパターン重視の分野であると言えるだろう. なんとならば,生態学者(とくに「動態屋さん」)たちの 「データ」を見てみよう. 実になんと奇っ怪な構造を持った数値の羅列 すなわちパターンであることか.

しかも話を聞いていて「凄い」と感心することがある. この人たちはパターンの時間変化というものを何年間も観察したあげく, さらにはその変遷がでたらめなものではなく, 何らかのルールに従っていると信じて疑わないのである. これを少し乱暴に言い換えてみよう. すなわち, あるパターンから別のパターンに変換する何らかの それほど複雑ではない演算のセットが存在していると 彼らは予測しているのではないか. であるならば,そのようなセットは存在するのか存在しないのか. これこそが数理科学の使い所であると思う.

「何度でも原点からやり直す」という方法論

「生態学の研究のために数学を勉強したいんだけど, どういう教科書を読めばいいのでしょう」と質問されることがある. 上で考えたようなことをふまえて, 私は「あなたはどんなパターンの何を調べたいのでしょう」と いった感じで逆にお尋ねする. 道具は目的に沿って選んだほうがいいからだ. また,いつでも自分にとって必要な道具があるとは限らない. そういうときには,既存のものにはこだわらず, たいへん原始的なところに立ち返って 自分の研究に必要な道具を作ることも多々ある.

私の見るところ, 何ごとも一般化しがたい生態学という学問分野にあっては, 「伝統ある」やり方には拘泥せず, むしろ「本当に解決したい問題」が何であるかをはっきりさせ (これがなかなか難しい), さらに「データ構造」をよく吟味して, 「記号,演算そしてパターン」から何度でも試行錯誤で 自分の道具を整えていくほうがマシだ[5]. 手作業でこれをやるのはしばしば英雄的な決心と努力が必要だけど, 電算機はこの過程をいちじるしく効率化する. 近年この分野で計算集約的なモデリング (パターンの特徴づけと再生成) が注目されているのは,そのためだと思う.



脚注

[1] 「ここでは行動そのものが目的である場合を除外する. それは人間のなすべき行為じゃないからだ」 佐藤大輔「虚栄の掟」(1997)

[2] 「たたき込まれる」という大仰な表現は, たたき込む側の振る舞いを たたき込まれる側から観察しているだけであって…… 念のため申し上げれば, 算数・数学担当の文部官僚諸賢にとって 私は真に憎むべき悪辣なる児童であり許しがたい学生であった. 計算ドリルは一枚もやらず, 章末問題に興味をしめさず, 「解法の公式と“チャート”」はまったく覚えようとしなかった.

[3] 本屋に行けば,「数学,パターンの科学」といった感じの本が 並んでいるから, これはそれほど世間ばなれしたとっぴな見方ではなかろう.

[4] さらに演算という操作それ自身も ふつうは記号で記述されるから, 演算を変換する演算というのもある.

[5] そうなのだけど…… 道具そのものにいれこみ, 道具としての本質を忘れて偏愛することそのものを 目的とした道具フェチストになりやすい民族的性向をわれわれは持つらしい. 刀は武士の魂だとか,ピッケルは岳人の魂だとか…… われわれ生態学者も しばしばこの陥穽にはまりこんでいるのではなかろうか.




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