Path: earth!hu-eos-news!Q.T.Honey!news.join.ad.jp!newsserver.jvnc.net!newshub.northeast.verio.net!howland.erols.net!newsfeed.internetmci.com!202.216.224.169!news.dti.ad.jp!news1.dti.ne.jp!not-for-mail From: "Gen-ichi NISHIO" Newsgroups: fj.rec.history Subject: Re: tyuu-sei-shi for fantasy Date: Sun, 12 Jul 1998 03:20:19 +0900 Organization: Dream Train Internet Lines: 237 Message-ID: <6o89pn$k20$1@news1.dti.ne.jp> References: <6n3063$42d$1@news1.dti.ne.jp> NNTP-Posting-Host: ins30.yokohama3.dti.ne.jp Mime-Version: 1.0 Content-Type: text/plain; charset="iso-2022-jp" Content-Transfer-Encoding: 7bit X-Newsreader: Microsoft Outlook Express 4.72.3110.5 X-MimeOLE: Produced By Microsoft MimeOLE V4.72.3110.3 Xref: earth fj.rec.history:237 sbv001ms@ex.ecip.osaka-u.ac.jp wrote in message ... >ぼくが見た範囲から言うと、ヨーロッパ系ファンタジー世界は >遅くともルネサンス期までのような政治的分裂状態にあって >中世のうちでも前半頃ではないかと思います。 うーむ、これはかなり作品に依るような気もします。 たとえば、J.R.R.トールキンの「指輪物語」について言えば、「これってほん まに中世なんかい」と私などは常々疑問に思っていまして。ゴンドールなどは中 世というより16世紀以降の絶対主義王制のイメージですし (ローハンはなんとな く封建領主っぽい)、ホビット庄の裁判・徴税システムというのも割と謎。 ムアコックの「エルリック」シリーズもまたよくわからないのですが、これは 「メルニボネ==西ローマ帝国、新王国==ゴート族やバンダル族」と考えるべきな んでしょうかね。 ちなみにヨーロッパ史において中世というのは歴史学上の定義が一応あるそう で、476年の西ローマ帝国滅亡から、1453年の東ローマ帝国滅亡まで、だそうで す。それ以前は古代、それ以後は近世と呼ばれます。実際には16世紀頭の宗教改 革開始ぐらいまでを中世と見なすことも多いようですが。 >この時代のヨーロッパの(荘園の)集落は、(世界史図表で見たやつ >ぐらいしか記憶にないけど) 荘園領主の支配下にあったらしい >裁判も徴税も領主が執り行っていた。領主は一般に騎士か領主代官 >で、税は労働税(領主の土地を耕す)か物納で、商品生産は少なかった >交易の商品は主に領主や貴族のための物資で庶民が買うものは少な >かったと思う。荘民は移動の自由を認められていなかったし、教育を >受けないため文字の読み書きが出来るものは少なかった >日本と比べて平地面積が広いだけあって、集落間の距離が遠く、 >その分余計に集落の平均人口は多めになった事と思う。 うーん、部分部分としては正しいのですが、全体としてこう言ってしまうと問 題ありなのでは。 まず、中世ヨーロッパにおいて全ての村落が封建領主の支配下にあったかとい うと、必ずしもそうではありませんでした。 ただし、領主を持たない農民自己保有の村落がどれだけあったかは、正確なと ころよくわかっていません。というのも、領主支配下にある土地であれば徴税の 記録などが残っているため現在でも当時の分布が把握できるのですが、自己保有 の土地についてはそういった記録がないことが多いため、実態がどうだったか知 る術がないのです。じゃあなんで自己保有の土地があったなんてわかるのかと言 うと、「何年にどこどこの村が庇護を求めて新たに○○侯の支配下に入った」な どの記録が数多く残っているためです。その記録以前のその村は、どこの領主の 支配下にもなかったと目されます。ただし、その村がいったいいつから存在して いたかの記録はありません。 ある地域全体が、中世を通じて封建領主を持たず、農民自己保有状況にあった、 という例もいくつかあります。スカンジナヴィア半島全域、ドイツのディトマル シェン地方、フリースランド地方などがその典型例です。このような地方の住民 は、ゲルマン人の古き良き伝統を守り、農民と戦士が分化していませんでした。 村人全員が血縁の絆で結ばれ、いざとなれば鋤を槍に持ち替えて全員が戦闘体制 に入れるため、領主や騎士の庇護を必要としなかったのです。ちなみにフリース ラント地方では、15世紀の本当に中世も終わろうとしている頃になって、農民の 中の富農層が首長となって権力を集め、領主化する、という現象が見られていま す。 あと特殊なのが、トスカナやロンバルディアと言った北イタリアの状況です。 早くから自治都市が発達したこの地域では、封建領主の勢力が弱く、代わりに商 人らからなる都市政府が周辺の農村を所領としていました。 自由民と隷属民の状況は、地域によって大きく異なります。 先に述べたスカンジナヴィアやフリースラントの場合、農民は全て自由民で、 移動や結婚の自由を持っていました。ザクセン、ノルマンディー、ロンバルディ ア、それにレオン・アラゴーン下のスペインでも、封建制は発達していましたが、 農民のほとんどは自由民でした。 逆に、自由民の農民をほとんど持たなかったのが、ノルマン朝以降のイングラ ンドです。フランス中部からドイツ南部にかけても、農奴制が強く発達する傾向 にありました。 アキテーヌ、両シチリア王国、カスティーリャあたりは、この中間ぐらいでし ょうか。自由民と隷属民が半々ぐらいで、という情勢だったようです。 裁判については、原則としては次のようになっていました。自由民は国王また はその代理人の主催する審理を請求することができる。隷属民は主人によって裁 かれる。ただし実際には、多くの地方領主は不輸不入権(イミュニテ)を持ってお り、国王の代理人と言えど勝手に領地に入ることができませんでした。そのため 実際には、裁判を地方領主に委任せざるを得ない、というケースも少なくありま せんでした。 経済状況については、 たしかに中世ヨーロッパというと今まで、貨幣経済が崩壊した暗黒時代、とい うイメージで見られることが多かったようです。しかし最近では、貨幣の使用が 下層農民まで浸透した交易社会であった、ということがわかっているそうです。 以下参考文献より。 かつて経済のもっとも衰退した時代というレッテルを張られた中世初期カ ロリング期においても、遠隔地間の商業活動や市場地の存在のみならず、 それらと緊密に結びついた荘園の貨幣経済的実態が明らかにされることで、 領主層から農民・下層民にいたるまで広く貨幣使用の浸透した、交易展開 社会であったことが一般に確認されている (山田雅彦, 「西欧中世史(中)」pp151, ミネルヴァ書房, 1995) 主な交易品目は、石材、羊毛、材木、穀物、織物、ワイン、鉄... なんか参考 資料がバレバレだな。しかしまあ fj.rec.history だからいっかあ。他にも、岩 塩、蜂蜜、蜜蝋、それに奴隷などが重要な交易品でした。東方からはスパイス、 絹、材木などが輸入されていました。代わりに東方に輸出するものって、実は奴 隷ぐらいしかなかったらしいんですが。 石材は建物の建築や土木工事に、羊毛と毛織物は冬服に、ワインはミサに、岩 塩は保存食に、それぞれ不可欠です。11世紀以降は鉄も農具などに必要となりま した。いずれも生活必需品と考えてよいでしょう。13世紀以降は商品作物の生産 が増えて市場に出回るようになります。特に重要なのが毛織物ですか。13世紀以 降毛織物が東方に輸出されるようになり、貿易収支が劇的に改善されます。これ が後の囲い込み運動につながっていきます。 集落間の距離についてはどうかと言いますと、 たまたま手もとにあったドイツの黒森の村落分布図 ("Atlas of World History 4th Edition", Times Press, 1994) を見てみますと、9世紀の時点で村落と隣の 村落との間の距離はおおむね 3km 以下となっています。北フランスの分布図を 見ても似たり寄ったりでしょうか。ほとんどは、街道ないし川にそって分布して います。 12世紀になりますと、村落の数は一気に倍以上に増えます。11〜12世紀にかけ ての中世ヨーロッパの村落事情は、ちょうど日本の江戸時代における新田開発に 対応しており、森を切り開いて新しい村を作る、という状態にありました。川や 街道のない森林奥部にも新しい村落が多数誕生しています。村落間の距離も短く なり、2km程度の間隔で数珠つなぎになっている感じです。 中世ヨーロッパの村落の様相は時代によっても大きく変わるのですが、だいた いまとめると以下のような感じでしょうか。 5世紀〜8世紀 中世初期にあたるこの時代は、封建制が少しずつ発達してきた時代でもありま す。 メロヴィング朝フランク王国は、あまり王権がしっかりしておらず、政治的に 不安定でした。中小の自営農民が、庇護を求めて有力者に自分の土地を譲渡し、 貢租の支払い義務とともに再授与してもらう、ということが多く行われていまし た。こうやって有力者が力を付けて、地方領主へと成り上がってきたわけです。 当時の貢租は、賦役労働が主でした。農民は自分の畑(農民保有地)を耕す一方 で、賦役労働として領主の土地(領主直営地)をも耕す、という方式でした。だい たい週に三日は領主直営地で働くことが義務づけられていたようです。また、領 主直営地でとれた作物を売りに行く、領主の館を修理する、戦争の際には即席の 歩兵として従軍する、なども賦役労働と考えられていました。 とは言っても、この当時の農村の状況を、領主が農民から搾取する体制という 単純な図式で理解するのは、あまり正しくありません。当時の領主は、自ら畑を 耕し、農民と共に飲み食いし、農民と「人と人との濃ゆい絆」で結ばれていた、 と見られています。 また当時は、まだ城があまりありませんでしたし、領主の館を中心として集落 が形成されるということも一般化していませんでした。領主の領地というのは多 くの村落に分散しているのが普通で、また一つの村落に二人以上の領主の領地が モザイク状に混在することも当たり前でした。そのため、村落共同体というもの はまだ活発に活動するに至りませんでした。一つの村落の規模は、大きくても二 十世帯程度だったようです。 9世紀〜10世紀 いわゆる異民族侵入の時代です。サラセン人、マジャール人、ヴァイキングお よびノルマン人の西ヨーロッパへの侵入が相次ぎ、掠奪や住民の逃散が日常茶飯 事でした。もっとも被害の大きかったセーヌ河、ロワール河、モーゼル河流域地 帯では、農民が団結して武器を手に取り、侵略者に立ち向かう、という光景も見 られました。 かかる危急に事態に対して、各国の王権はあまり効果的な対処ができませんで した。お互いに足を引っ張り合ったりして、防衛体制を整えることができなかっ たわけです。うまく防衛体制を取れたのは、身近に人的資源を抱えており、また 過大な野望を持つことも無かった地方権力だけでした。 異民族侵入が始まるまで、今日見られるような (我々が中世ヨーロッパと聞い てイメージするような) 巨大な石造りの城というものはありませんでした。各地 の地方権力が、掠奪者からの防御拠点として建て始めたのが最初です。 11〜13世紀 異民族の侵入が止んだ西ヨーロッパでは、気候の温暖化にも支えられて、人口 が急ピッチで増加し始めます。これと軌を同じくして、森を切り開いての大規模 な開拓が始まります。 どの封建領主も、収入を増やすために開拓を押し進め、そのための農民を大々 的に募集しました。結婚や移住についての自由を保証する証書を与え、これを餌 に開拓民を呼び寄せようというわけです。こういった自由は実は16世紀ぐらいに 次々と取り上げられてしまうのですが、とりあえず中世の間はずっと存続したよ うです。 その一方で封建領主達は、自分たちの城を中心に裁判権を発揮し、それまでの 土地所有とは関係なく周辺一体の農民を事実上隷属させる、いわゆるバン領主制 を発達させ始めます。領主直営地での賦役労働は有名無実のものと化し、代わっ てタイユ税 (軍事的保護に対する税金、要するにみかじめ料)、裁判料、通行税、 バナリテ (パン焼き釜やブドウ圧搾器、水車などを領主が独占所有し、料金を払 ってこれらを使用することを農民に強制する) などで収入を得始めます。農民保 有地に対する貢租も定額地代として金納化する一方で、領主直営地の耕作は季節 的な賃金雇用労働にシフトし始めます。こうして、昔からの「人と人との濃ゆい 絆」は消滅し、領主が農民の身体を直接支配することもなくなり、代わって、土 地を媒介とする支配関係、すなわち狭義の農奴制が始まります。 また、水車や風車、鉄製の農具、蹄鉄や首輪式引具、重量有輪犂、それに三圃 式農業の普及いった、いわゆる中世農業革命が進展したのもこの時期です。特に 重量有輪犂と三圃式農業は重要です。耕地を一か所にまとめて集団で耕すことに よって効率を挙げるこの農法のため、農民達が一か所に集まる集村化が進みまし た。掠奪者の攻撃を防ぐために、領主の城を中心とした集落を作って外部に防壁 を巡らせるインカステラメントも行われました。 村人の共同耕作が進んだことから、自治的な村落共同体が力をもたげてきます。 村民全体の集会が一般化し、徴税や裁判の一部を代行したり、村の慣習や領主農 民間の諸々の権利義務を領主と農民の立ち会いのもとに成文化させた「判告録」 を作ったりなど、農民が領主に対抗するための機関として動き始めました。 農民が剣や槍で武装することが禁止され始めたのも、この頃です。1152年のフ リードリヒ・バルバロサの平和令など。自由民の農民と貴族たる騎士の間にはっ きりと線を引こうという試みです。1187年の平和令では、農民の息子が騎士に叙 任されることを禁止してさえいます。逆に言うとそれまでは、農民と騎士の間の 区別がそんなにはっきりしていなかった、というわけです。 13〜15世紀 シャンパーニュの大市に代表される「市」が発達し、経済システムが整ったこ とにより、交易が劇的に増加し始めます。農民も、「お祭り」としての市に出か けて買い物をする機会が増え、消費が盛んになります。この頃から、イタリアを 中心にいわゆるルネッサンスの時代が始まります。 13世紀以降、いわゆる農奴解放が開始されます。隷属身分にあった農民が、領 主に金を払って「自由民」の地位を買い取る動きです。 しかしながら、農奴解放ならびに自治的な村落共同体は、必ずしも農民の生活 の向上に結びつきませんでした。村落共同体の指導層(多くの場合は富裕農)が領 主との交渉を自分達に有利なように進めた結果、貢租負担は貧困層に行くほどき つくなりました。さらに、富裕農が保有地や金を他の農民に又貸しするラント制 の発展により、富裕農はますます富み、中・下層農民はますます貧しく、という 階級格差が目に付くようになります。せっかく自由民の地位を買い取っても、そ の支払いに追われ、保有地を売り払わざるを得ず、日雇い農や小作人、季節労働 者に落ちぶれる、というケースも増えます。この辺は、江戸時代の日本の農村事 情と似ているかもしれません。 14世紀以降、情勢はさらに農民に厳しくなります。有望な開拓地の枯渇、たび 重なる饑饉、黒死病の大流行、英仏百年戦争による国土の荒廃、カトリック分裂 による混乱、そして封建領主の権力を解体して王権を伸長させようとする国王の 企て、などにより、中世の封建制度そのものが変貌していきます。フランスでは 富農層が大地主となって絶対王政に仕える貴族となっていきます。イギリスでは エンクロージャの進展によって行き場を失った貧農層が都市へ流れ込み、来るべ き産業革命に労働力を提供する準備をする一方で、ヨーマンと呼ばれる独立自営 農民階級が確立します。ただしドイツだけは、強力な中央王権を欠いたため、グ ーツヘルシャフトという形での封建制が維持されました。有名なワット・タイラ ーの乱を初めとして、農民一揆も頻発するようになります。 その一方で、この危機を乗り越えるため、14世紀後半から家内制手工業が農村 に普及し始めます。こうして時代は移り変わり、中世は終焉を迎え、そして新し い時代「近世」が始まることとなります。 で、「中世ヨーロッパ風」を自称するファンタジーは現実中世世界のどの辺に 相当するかと言うと、実はどこにもぴったり当てはまるところはなく、適当に都 合のいいところを寄せ集めてさらに創作で補って、というところなのではないで しょうか。 ---- Gen-ichi NISHIO malraux@ca2.so-net.or.jp