アル中の大学院生 ─大学の困った人々 (II)─

光に包まれて蒸発していった街

あ, 飲んでいますね.

どう.

相変わらずやめてますんで …… って言うと, 急に勧められるようになるんですよね.

飲まなくなってから もう半年ぐらいたったんじゃない. 体重もずいぶん落ちてしまったらしいね. あるいは, ひょっとすると, もう酒の匂いをかぐのもイヤだとか.

ところが 飲まなくなってからというもの, アルコール飲料の官能が 頭の中で かえって 精密に再現されるようになってしまいました. たとえば, できのよい焼酎なんかを飲んだときに 鼻孔にぬける芳香だとか, 水よりかすかに粘度の高い舌触り なんかがですね.

ふーん, じゃあ 飲みたい とは 思ってるわけだ.

そうは思ってませんけどね. 「人が飲んでるから自分も」 というような 性格でもありませんし.

だったら 宴会なんかでも.

自分で飲むより 酔っぱらいたちの観察でもしていたほうが 面白いですから. もっとも炯眼の士の逆観察によると 「飲み会では 飲んでないくせに へろへろ」 状態になってるそうなんですけど, 自分ではわかりかねます. むしろ 一人のときのほうがアブないかな. たとえば 徹夜で仕事して疲れきったときに 講座のお茶部屋なんかのテイブルの上に おいしそうなお酒が乗ってるのを見つけたとしますよね.

「飲むべきか 飲まざるべきか」 なーんて 葛藤があったりするの.

そんなに深刻でもありませんよ. 「飲んだらラクになれるのに, ぐっすりと眠れるのに」 という程度で. 反射的に 「いや, 飲んでも 結局のところ 問題解決には何も寄与しない」 というような フォロウがつくんですけどね. そしてタメ息.

仕事のあとの寝酒か. どうもそこから始まる人が多いみたいだね. 「アル中大学院生の三段階説」 っていうのがあってね.

聞いたこともありません.

第一段階では 眠るために飲む. つまり, これまでの学問を一日中お勉強ばかりしているから, 寝ようと思っても目が冴えて眠れなくなる. 「明日も朝からお勉強しなきゃ」 と思ってるから 安価で手軽な睡眠薬である お酒に手が伸びてしまうわけだ.

そういうのは ありそうですね.

第二段階では 痛みどめのために飲む. 学問の最先端ってのはつねに破綻し続けているだろう. ああ, 破綻してないなら, そこはすでに死んでいるんだよ. で, お勉強をひととおり終えた 大学院生なんかも その暴力的な破壊活動に身を投じると同時に, そう簡単には 突破されない (ように見える,かな) 自分の防御陣地の構築に とりくむようになる. まさに矛盾そのもの.

その矛盾ゆえに飲んじゃうんですか.

一生懸命やればやるほど, その世界の妄想を破壊することになり, もはや身動きままならない先住者 (つまりエラい人たちだね) からは 「無意味だ」 とか 罵倒される. 一方, 自らの鉄壁の空想虚構体系 (えーと, 人間が認識できることは ことごとく空想なんだよ) を 何ヵ月もかけて構築したかと思えば, 今度は 同じように 全力をつくして それを粉砕していく. はたから見たら正気ではないよね. そういった 内憂外患の痛みどめとして飲む.

酔余の話とはいえ, だんだん 破綻してませんか. ああ, つまり このあたりがガクモンの最先端なんだ.

まあまあ. そして, 第三段階では バカバカしいから飲む. 懐疑と狂信の往復を繰り返すうちに, 強襲揚陸作業を支援する海岸橋頭堡の確保に 一時的ながらも成功したり, 少しは使えるかもしれない 目新しい戦法をひねり出した 大学院生がいたとしよう. そうすると, 信仰にもとるとの大義名分を掲げて 好き放題言ってた連中が, 口をぬぐい 手のひらを返したかのように その彼なり彼女なりを 便利使いするようになるんだよね. まだまだ防御体制不十分な その方法でもって くっだらないことを次々にやらせて 使いつぶしてしまう.

使いつぶされるなら, 海岸橋頭堡というより 波打ち際の砂のお城です.

最初はなんでもそうだよ. しかし, これもまた飲む理由にならないかね.

なーるほど, 浮世離れした大学院生たちも ようやくその第三段階とやらに到達するにいたって, わが国の多数派たる給料取りの組織構成員と同じように 「上役の悪口をサカナに酔っぱらってクダをまく」 権利を わがものにできるってことですね.

そうかもしれんね. しかし, この段階まで ビョーキが進行してるやつが もし ホントに実在するならば, そいつは もう惰性だけで酒を飲み続けているんだろうなぁ.

そのアヤしげな三段階説はともかく, 私なんかも惰性で飲み続けてた ってところはありましたよ. 焼酎お湯割りだけが唯一の楽しみ, これは 単純化された ひどくわかりやすい世界でした. 労働と報酬, 労働と報酬.

報酬が取り上げられてなお, 崇高なる労働の純粋なる喜びとやらは残るのだろうか.

私の場合は 全然ダメでしたね.

禁断症状ってやつかい.

生理的な禁断症状らしきものは, そうですね 1-2 ヶ月でかなりおさまったと 思うんですけど. 「飲まずに仕事する」 という状態に なかなか慣れなくて. もう何年も 「飲む,仕事する,飲む」 サイクルでやってきたんですけど, それを崩壊させちゃったわけですから. 当節流行の腐れジャーゴンをあえて用いるなら 「ビジネスモデル」 とやらの 変更が迫られているのかもしれません.

以上の要約を試みるなら, 最近は何も仕事してない ということか.

研究はほとんど進捗しませんでした. むしろ 雑用みたいなことはできたんで, ひたすら そんなのばっかり.

飲むこと と 研究すること, 君の中で どう関係してるんだろうね. あ, もしかしたら 「第二段階」 だったの.

まだ言ってますね. しかし, エチルアルコール分子って 血に混じりつつ 大脳を直接たたくから, うーん, 思考の生理学っていうのかな, なんか気質的なところが 少し変わったかもしれません.

え, 何が変わったんだい.

将棋でたとえれば, 飲んでたころは, いきづまっても 投げ出すのがイヤで 延々と長考して ずーっと「手」を果てしなく読んでいく ようなカンジだったんですけど, 最近は さっさと投了して 序盤の駒ぐみから何度もやり直す ような.

たんに年とったから, 同じことを常に考え続けるような ねばりがなくなっただけだったりして.

まぁ, そうなのかもしれません …… あ, でも, 研究とは関係ないんですけど, ここふた月ほど, みょーな妄想が しつこく しつこく 脳内で 繰り返し再生されてしまって, どこかに消えてしまった わが愛しの 「リセットボタン」 への喪失感を あおり続けているんですよ.

妄想だって. 酒をやめたと思ったら, こんどはまた何かべつの薬物にでも.

さすがに そこまで旺盛なる探求心は持合せていないようです.

で, その妄想ってのは.

うーん, よく知ってる場所が消滅する, というような.

なんだい, そりゃあ. 何がどうなるって.

どう言ったらいいのかな …… ああ, つまり, 先週の出来事もよく覚えてないような人間であっても, ずっと昔に触った道路の感触とか そういうのは 実感を伴って とてもよく覚えている所ってありますよね. そういう街に, ですねえ.

ますます わからんよ.

いまは亡きソヴィエト連邦の マッドミリタリーエンジニアたちが 面白半分で作って 1961 年 10 月に実験しちゃった 人類史上最悪の 50 メガトン級 熱核融合反応弾みたいなやつが, ですねえ.

そういう細目だけは 不必要なまでに 具体的で まにあっくだな.

上空で炸裂して, その街が まるごと気化しながら 吹き飛んでいくんですけど, なぜか とっても ゆっくり ゆっくり と 閃光に飲み込まれていくんですよ.

うーむ, なんとも気宇壮大なスペクタクルだねぇ.

私は それを 離れたところ (どこなんだろ) から 呆然と眺めていて …… しばらくして 「やれやれ, 今回もまた何とか生き延びてしまった」 とか何とか 思うんですよ. あるいは 「なぜ, 生き延びようとするたびに, 何かを失わなければならないんだろう」 とか.

ああ, 少し わかったような気がする. しかし, その解釈では あまりにも自己愛的被害妄想的気分が 露骨すぎやしないか. まるっきり逆に考えることもできるんでは.

そうなんでしょうか.

失いたくなかったものが 遠く失なわれてしまってなお, ほぼ平然と日常を継続できてしまう程度には, いまだに 君は 厚かましくも倣岸で少しまぬけな生き物であり続けている, そういうことじゃないのかな. むしろ, なんとも めでたいこと と思うけどね.

そうかも しれません. そう考えても いいのかもしれません. 蒸発していった街の墓碑銘として, そちらのほうが ふさわしいのかもしれません.

(おしまい)

(1999.12.31)
Go back to index