アル中の大学院生 ─大学の困った人々 (II)─

眠りなき夜に履行できる誓約は

なんとも しんきくさい顔つきで来たわね.

飲まなくなってから ようやく一週間経過.

へえー, まだ続いてたんスか.

続いてる. というか, やめてる. ええい, どっちだ. ともかく 頭の中まっしろ. ホワイトアウト.

たしかに へっぽこ感 みちあふるる, というカンジね.

気分悪い. 頭が頭痛で痛い. 何もかも呪われてる.

ムチャクチャなこと言ってるなぁ. じゃあ, 一週間前に 「今日から飲まない」 作戦を決行してから ずっとそんな調子なんスか.

いや. 何て言うか, だいぶ これでも良くなったんだ.

ふーん. けっこう じゅーとく だったんだ. アルコールへの依存度が.

全然 眠れなくなってねぇ.

ええっ, 一週間も.

いやいや, だんだん眠れる時間は長くなりつつある. 助かった.

なんで, 飲むのをやめただけで 眠れなくなんのよ.

うう. いろいろ.

飲めないんで イライラして 寝付けないとか.

それは初夜. あっ, 恥ずかしい.

ばか?

ともかく 最初の晩は, 横になって本を読みながら 「飲みたい, いや, 飲めない」 を 100 回ぐらい繰り返しているうちに 夜があけてしまった.

夜中に 酒の衝動買いに走らなかったんスか.

ふふふ. まぁ, それは予想できてたんで きちーんと 対策ずみであったのだよ.

威張ってないで, さっさとその対策とやらを説明しなさいよ.

現金もキャッシュカードも何もかも 研究室の引き出しの中に入れて家に帰ったんだ. じつは飲むのをやめていらい, 夜は一文無し状態が続いてる.

なんともはや. よーく そんなこと考えつきますね.

この程度の小細工が 次々と思いつかないようでは, 何事もうまくいかないよ.

下らないわ. 絶望的に下らないわ.

でも, 家のすぐ近くに酒類も扱う コンヴィニエンスストアーがあるんだけど, もしかしたら, そこの深夜勤務のバイトのにーちゃんに 「すんません. いま金ないんですけど, 酒ください」 と 泣きながら土下座でもしてみせれば, 「いいちこ」 一本ぐらいは めぐんでやるように, と その店のマニュアルに指示されてないかと かなりマジメに検討してみた.

書いてあるわけないでしょう.

店員教育用マニュアルに万歳. 資本主義にもばんざーい.

なに 錯乱してんのよ.

錯乱というか 神経細胞たちが 飼い主に謀反を企てはじめたのは 二日目からだったんだよね.

謀反スか. ああ, あたま痛いとか言ってたやつ.

頭痛はそのときから続いてる. 「飲みたい,いや,飲めない」 で一晩明けちゃうと, その時点でけっこうもう へろへろになってんだよね.

それだったら眠れそうじゃない.

うん. で, 二日目の晩は 「これで休める」 と ばたんと倒れたんだけど一時間もしないうちに 飛び起きてしまった.

こわい夢でも見たんスか.

そう, 悪夢なんだけど …… それ以降 あまりにもたくさん見せられてきたんで, 順番とか わからなくなったなぁ. 部屋の中を無数の真っ黒な人影が徘徊しているのに, こっちは金縛りにあったみたいに動けなくて, 呼吸もできない, とか.

はぁー, たしかに神経やられてる.

飛び起きてみると, 実際, 息ができないほど 喉が渇いてるんだよね. あわてて水を飲むんだけど, いくら飲んでも喉の奥の異物感がとれない, みたいな.

ああ, 水じゃあなくて, もっと別のものが.

ぼくの神経細胞たちが それを希求してやまないことが わかってきた. たぶん彼らの何割かは 「エタノール分子が供給されないと死んでしまう」 とでも信じているんだろーね. 頭蓋骨のすぐ内側というか, 大脳の表面がびりびりとしびれてしまって. 「飲まないと体が危ない, 飲まないと体が危ない」 というカンジなんだよね.

さぁ, だんだん誘惑されてきたよー.

「明日はやっぱり酒買って帰ろうか. それともやめようか」 とは考えた. なんか飲まない理由が欲しかったんだけど, 頭の中は もうすでに真っ白でね. 「これだ」 ってのが なにも思いつかない. しょーがないから, まずは 「ぼくが飲まなければ, 何か他人にとって有用か」 というあたりから 検討やりなおした.

そりゃあ, 全然らしくないっスね.

うん. で, やっぱり いろいろ考え直しても 「飲んでも飲まなくても, 他人にとってはどうでもよいことだ」 という 当たり前の結論に 必ず到達するんだよね. がんばって 抵抗を継続したくなる理由にはならない.

さすがは社会不適応者.

で, またうとうとして, 跳ね起きて, 水飲んで, を 繰り返しているうちに, ようやく 現状に関するひとつの解釈に気づいた. ぼくは自身の神経系に脅迫されているんだ と.

そのみょーな解釈は何をもたらしたのです.

「いかなる劣悪な状況のもとからでも, 生還を期さなければならない」

なにそれ.

…… っていう教条だけが, ただひとつの貴いものである と, 狂信してた時代があったなぁ, と思い出した. 酒の良いところはこういう思い込みからの 解放ではあったんだけど.

飲まなくなって, ふたたびそれが機能し始めた, と.

そう. これは, 都合よいことに, いまや誰も解約に応じてくれない 誓約だと気づいたんだよね. 所詮は 狂信のひとつにすぎない, とは理解していても.

まぁまぁ. 昔から 「狂信, 狂信 いつだって 狂信」 って 言うじゃない.

それは意訳しすぎ. だけど, ぼくの手に最後まで残る制御可能な道具ってのは, それしかないなぁ と思った.

現在の危機に その古い道具を使ってやろー と.

まぁ, 何と言うのか, 脅迫する側もされる側も自分の神経細胞たち っていう よくわかんない状況なんだけどね. ともかく, それにすがって二晩目は終わってしまった.

あら, 何とかなってしまったじゃない.

いや. 最後にして最大の危機は三日目の晩だったんだよね. もう疲れてしまっていたから, その晩こそは ついに眠れるんじゃあないかと 期待してたんだけど.

またまた悪夢でも見たんスか.

きわめつけの最悪なやつ. 押し倒されて 首をしめられて苦しがってるときに, いきなりの激痛で目が覚めた.

どうして激痛なの.

暗闇の中で床を思いっ切り 力まかせに ぶん殴ってたんだよね. 衝撃で腕の骨が肩関節から外れかけた. 夢の中だから手加減してなくて.

あ, 痛そう. 亜脱臼スね. はめ直せましたか.

ときどき外れるから, 自分でなんとか. また起きて また水飲んで, もう寝る気になれなくて ふとんの上で膝をかかえて座りこんだ.

いよいよ追い詰められたみたいね.

うん. もはや 道具としての狂信 みたいなのも役に立たない. 頭の中は 「殺してやる」 っていうので いっぱいなんだよね.

うわー, それってホントに狂ってるんじゃないスか.

もう寝てやるもんか, 頭が完全におかしくなっても起き続けてやる, 絶対に許さない, みな殺しにしてやる, とか.

うーん, ついに 「みな殺し」 モード発動.

体の限界だとわかった. ずーっと前にも同じことがあったから.

その 殺意の対象は何なんです.

それが ちっとも具体的じゃなくて, ひどく観念論的なんだよ. でも, 殺意はいいね, と思った. 何もかも 「殺してやる」 一色に塗りつぶされてね.

一晩中そんなふうだったんだ.

うん. ようやく 明るくなってくると 気がゆるんで眠ってしまった. 喉が渇いたりして すぐに目が覚めるんだけど, それ以降は悪夢は見なくなった.

一晩で, その いうところの 「エタノール分子なしでは生きていけない神経細胞」 ってのが 数千万個ぐらいまとめて ホントに お亡くなりになったのかもしれませんね.

そうかもしれない. だとすると, ますます脳細胞数に不足をきたすな. やっぱり酒をやめるのは体に悪いねえ.

何を今さら.

(つづく)

(1999.12.29)
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